よだかの子ども | 01.はなさき

ブルウ - シリーズ

かたくなな人だと、あやねは思った。

アパレル店員なんて職についていると、日々様々な人間に出会う。その中でも頑なと呼ばれる人は、一言でそう言ってもひとつには絞れない複雑さを持っていた。自分に似合う服やかたちを理解している人、サイズは絶対にMサイズの人、馴染みのスタッフがいなければ逃げるようにその場を離れていく人、その他様々。
彼女の場合は、それとは少しだけ異なるものではあったけれど。

初めて入店したときから彼女はそうだった。細い腕をぎゅうと抱えるようにして、芯を通せばまだ少し見上げる角度も変わるだろう身長も、強引な猫背で誤魔化そうとする。切長の目は長い前髪で覆われて、唯一上を向きがちな顎は所在なさげな視線と一緒にゆらゆらと動いていた。
彼女は不安気に店内を見渡し、ようやく見つけた目当ての一角を食い入るように見つめてから、ゆっくり、ゆっくりと足を伸ばしていった。この時あやねは、いま香山さんが休憩中でよかった、などとやや失礼なことを考えながらカットソーをたたみ直していた。香山と呼ばれる女性はあやねの先輩にあたる人物で、明るく面倒見も良い女性ではあるのだけれど少しばかり強引なところがある。どんなに魅力的な人物でも相性というものはあって、あやねが見る限り、香山の接客で彼女が納得のいく買い物ができるとは思えなかった。
彼女は上向きがちの顎をおそるおそる引いて、その一角に並ぶ衣服を一着一着見定めていく。トルソーが着回す淡いグリーンのレースワンピース、色違いのブラック、ボルドー。ブルーのタイトワンピースはVネックになっていた。ひとつ、またひとつ全身を眺めるたび、彼女は思い出したように正面を見つめる。そうしてはっと我に返るようにして、服へと伸ばす指先を震わす。
あやねは「一体あの先に何があったか」と、怯えさせないよう慎重に近付こうとしたのだけれど、そのタイミングで背後から声がかかった。すみません、この雑誌で紹介されていたグリーンのニットはどこにありますか。そう尋ねられてしまえば無視するわけにもいかない。あやねはぱっと表情を明るくして、ご案内いたしますねと右手をその方向へと伸ばした。

そうしている間に、彼女は店内から姿を消していた。一緒に店頭に立っていた後輩に尋ねると、一度軽く声をかけたあとも特に尋ねてくることはなく、しばらく同じ洋服を見つめてから店を出てしまったのだという。

「背の高い人でしたよね、手足も細いし。最後はずっと黒のセットアップ見てました、あのパンツのやつ。それもいいけど、きっとこれも似合うだろうなあ」

そう言って、後輩がラックからとったワンピースはブルーのタイトワンピースだった。確かにあの身長であれば映えるだろう、けれどもう一押し何かが足りない。それはなんだろう、なんだろうな、と、あやねも同じようにキャスター付きのラックに手を伸ばす。彼女が長く留まっていたのは、ドレスワンピースに分類されるやや華やかなデザインのものが並ぶ場所だった。誰か、知人の結婚式にでも招待されたのかもしれない。そういった理由で普段なかなか見かけない女性客が来店する例は多くある。
あやねは彼女が最後まで悩んでいた黒のセットアップを手に取って、自分が思い描くもう一押しが何なのかを絞り出そうとしていた。
「もう一度来てくれないかな」と思って顔を上げたのは無意識だ。そしてその瞬間はっとした。
彼女が時折顔を上げては体を強張らせていた視線の先、ラックにかけられたドレスワンピースからのぞく先の壁には、一枚の姿見が取り付けられていた。姿見にはしっかりと、あやねの姿が映っている。あやねは、いまは映ることのない彼女の姿を探すようにして、姿見に映る自分を見つめていた。何が彼女を躊躇させているのだろう。あやねがそれを知る手段はなく、ただ強烈に彼女を「かたくななひとだ」と感じた。

彼女が二度目の入店を果たしたのはそれから三日後のことだ。以前と変わらずゆらゆらと不安気に、けれど、ゆっくり一本線に同じ一角へと向かった。その時あやねは別の客を会計の列に案内する途中で、レジには先輩である香山が立っていた。香山は自らが接客した相手と和やかに会話を続けながら会計をしている。しばらく時間もかかりそうだと判断したあやねはそっと「二番目お並びの方も、お願いします」と言付けをしてその場から離れた。香山は会話の隙間のなかで朗らかに「了解」と応える。案内した客に一礼をして声をかければ、その客も小さく微笑んで会釈をしてくれた。そうしてふとまた、彼女の姿を探す。
彼女はやはり、先日見つめていた黒のセットアップを眺めながら、じいと立ち止まっていた。あやねの店で並ぶそのセットアップは無難な型ではあるけれど、シンプルな分シルエットがきれいにうつる。声をかけるか、どうするかと迷うところで、彼女の視線がこちらを向いて、はたと目が合った。あやねからの視線に気付いたのかもしれない、彼女は重なった視線を戸惑いつつすぐに離し、そのまま、手にしようとしていたセットアップからも離れようとする。

「あ、……あのっ」

咄嗟のことだった。あやねは自分が勤務中であることも接客上のマニュアルも普段のやり方も全て忘れて、思わず彼女に向かって声をかけた。香山はおそらく会計対応中で、他のスタッフも気付いてはいないくらいの小さな声。その声を唯一拾ってくれた相手は、ぱたぱたと瞬きをしながら、不安気に両手を胸にあてて立っていた。
あやねはそっと近付き、彼女に尋ねる。

「もし、お時間あれば…こちらご試着もできますので。よ、よろしければ」

いかがですか、と。まるで願い事のようだった。許しを乞うみたいな、歪な言葉を選んでしまった。
失敗した、と内心焦りつつもあやねは彼女から視線をそらさない。自分からそらしてしまえば最後、彼女はもう二度とここには来てくれないだろう。その確信だけは揺るぎなくあって、そしてあやねはそんな後悔をしたくはなかった。
彼女は、おろおろと視線を彷徨わせたあと、同じように胸の中で泳がせていた両の手をきゅうと握った。あやねはそれを見て、私の祈りに似ているなと、見当違いなことを考えながら彼女の言葉を待っていた。
握られた手はややあってから離れ、左手は胸においたまま、右の手は、おずおずと伸ばされる。その右手の先には彼女の隣に陳列される彩どりの洋服たちがあった。
彼女はゆっくり、先程まで眺めていた黒のセットアップを指して答える。

「こ、これ、試着いいですか」

予想していたよりもはるかに柔らかい、真綿のような声だった。女性らしい華やかさや鮮やかさは含まれてはいないけれど、ハスキーというにはまだ鋭さが足りない。一言では言い表せない、不思議な声だった。
あやねはもちろん、もちろんですと彼女に歩み寄り、指定されたセットアップをとる。

「こちらでよろしいですか」

「は、はい。お願いします」

彼女はやや緊張した面持ちのまま、けれど小さく微笑んだ。はじめこそ戸惑いが態度に大きく出ていたけれど、並んで歩く頃にはあやねの手慣れた案内にも過剰に怯えはしなかった。

「どちらかへのお出かけ用ですか?」

あやねは尋ねる。
彼女は小さく頷いて、「友人の結婚式に」と短く返事をした。
試着室の前に着けば、自然にパンプスを脱ぎ中へと入っていく。極端に人馴れをしていないわけではないらしい。
どうぞ、と衣服を手渡したとき、彼女は僅かに唇を震わせてからありがとうございます、と呟いて、受け取った。あやねは必死に仕事用の笑顔を作って、ごゆっくりどうぞ、と試着室のカーテンを閉める。
どれだけの時間がかかるかはわからなかった。今日の服装は以前と変わらないラフなカットソーとデニムで、青みがかった長い黒髪もおろされたままだった。シンプルな黒のセットアップは、きっと彼女の鋭い目つきにも映えるだろう。きちんとしていて、無難で、間違いはない。
カーテンを閉めたあと、あやねは振り返る。香山はすでに二人分の会計を終わらせていて、後輩に新たな業務を指示しているようだった。店内に客はいなかった。自分たちしかいなかった。自分と、同僚たちと、カーテンの向こう、試着室の中にそっと潜む彼女だけ。ふう、と、ちいさく息を吐いた先に、淡いグリーンのレースワンピースを着たトルソーがあった。彼女が目指した一角のなかで星みたいにして佇んでいる。あんなレースも似合いそうだな、と、あやねは思った。けれど色はもう少しくっきりとさせて、丈もいっそマキシまでいってもきっと。そこであやねは別の一角に目を向ける。壁沿いの棚にかけられたある一着。彼女が眺めていたいわゆるスタンダードなドレスワンピースからは少しだけ離された場所にそれはあった。確かあれの色違いが、と、あやねは足速に棚へと近付き手に取る。試着室のカーテンから人が出る気配はまだなく、その間にとそっと一着のワンピースを抱えた。

「いかがでしょうか」

程なくして、自らカーテンを開ける気配もなかったためやんわりと声をかけると、すぐに試着室の奥から「うあ、あ、はい」と返事が返ってきた。こちらからどう動くかと様子を伺っていたところで、おそるおそるカーテンが開かれる。
派手な装飾やデザイン性の少ないセットアップはなるほど彼女の線をシンプルに描いていた。すらりと細長い手足に合わせてすとんと落ちるパンツのライン、Uネックは彼女のしっかりとした首元を目立たせる。選ばれた黒は彼女自身の落ち着く色合いなのだろうか、俯きがちの表情にもぱっきり映えていた。

「わ、黒とってもお似合いですね」
「あ、ありがとうございます。うん、やっぱり、こういう、シンプルなのは落ち着きます。きれいだし」
「ありがとうございます」

やや照れくさそうにしながらも、言葉の通り彼女の態度は落ち着きを保っていた。動いた時の袖の動きだとか、背中の見え方を控えめに確認しながら、首元を撫でている。あやねはそこで、ぎゅうと勇気を振り絞ってひとつ、ふたつと尋ね始めた。

「普段から、こういった色合いや、デザインのものをお召しになられるんですか?」
「あ、ああはい。今回みたいな、こんなきれいなお店のものはそうそう手を出せないんですけど、緊張しちゃって。……あの、あ、すみません」
「ああ、いえ。お気になさらないでください。普段来ない店だと、物怖じしてしまいますよね」
「あ、へへ、はい。この店も、結婚する友人……彼女が時々着ているブランドだったので、なんとかこられたというか」
「そうなんですね!もしかしたら、私も接客したことあるかもしれないですね!」
「かもしれないですね、彼女よく似合ってるし、よく着てるから」

そう言って、彼女はふっと顔を上げて辺りを見渡した。試着室の中から、あやねの背に隠れた向こう側を物悲し気に見つめて「本当に彼女、よく似合ってるんですよ。とてもきれいな人で」と付け足した。

「カ、……カジュアルなものも、きれいめも置いてあるので、選択肢はきっと多いんだと思います。嬉しいです」

あやねは、自分の声が震えるのを堪えるのに精一杯だった。あやね自身、なぜここまで胸が締め付けられたような思いにならなくてはいけないのか、理解ができなかった。それでも逸らせない、それでもここで終わらせてしまうのはいけない、このままのこのひとを自分はきっと置いてはいきたくないと、電流にも似た鈍い熱が脳を走る。

「あの」

いまこの世界と彼女を隔てたい。あやねは強く思った。

彼女からつたわるかたくなな想いはおそらく「さみしい」なのだとあやねは思った。

「ご提案、させていただいてもよろしいでしょうか」

不思議そうに見下ろし首を傾げる彼女の影が、ゆっくりとあやねの表情にかかる。
その微笑みの中の縋るような願いは、この影によって彼女にはよく伝わらないかもしれない。
あやねは思ったけれど、それでも差し出す手を止めることはなかった。

「きっと、こちらもお似合いになると思います。丈も足首下まであるのでお客様の身長によく映えるかと思いますし、色も。ここまで黒がお似合いになるなら、全体的に淡く明るい色よりも深い色の方がきっと素敵です」
「えっ……と、でもこれ、すごい、全身、レースが……」
「派手にも思えるかもしれませんが、刺繍自体にグラデーションが施されていてよく見ると濃淡があるので、着てみると上品に見えます。絶対!首元もレース下のワンピースがVネックになっているのでデコルテとレースが重なってきれいですし、ネックレスがなくても華やかになると思います!」
「は、華やか。私がですか」

私がですか、と言った時、彼女が慣れた様子で自分を傷つけながら笑顔をつくったのがわかった。
あやねは数日前、姿見を見つめて身体を強張らせていた彼女の姿を思い返す。
「かたくななひとだ」と思った。さみしさのせいで、身動きが取れなくなっている人だと思った。
この世界と彼女を、自分が隔てることができたらと、強く思った。
あやねは顔を熱くしながら、懸命に頷いて最後の一言まで想いを告げる。

「絶対に素敵です。私は、ぜひ見たいです」

そこまでを言いきって、興奮冷めやらぬまま彼女の表情をじっと伺う。
彼女は呆気にとられた、というのがまさしく相応しいような表情で、あやねをじいと見下ろしていた。

「も、申し訳ありません。つい、完全に今、私情が混ざって」

あやねはじわじわと、自分の中でせり上がってきた熱量がこの場に相応しくないことを自覚していった。
自覚するとともに次にこみ上げるものは羞恥だ。差し出していたドレスワンピースをきゅうと大事に抱え込むようにして、後ずさる。

「でも本当に、素敵だろうなって思ったんです」

そこで、呆気にとられていた彼女の表情が少しだけ揺らいだ。
先ほどまで切なく見渡していた試着室の外の世界。
その手前で彼女自身のためにぎゅうと縮こまるあやねの姿が、彼女の視界の中でくっきりと映るような錯覚があった。彼女は、先程のようにおそるおそると手を伸ばして、あやねの腕の中にあるそれに触れる。

「…………い、……い……っかいだけ、着てみたいです」

あやねは彼女の言葉に、取り繕うこともできないまま顔を上げる。
顔を上げた先の彼女はなんともいえないようなこそばゆそうな顔をしながら「や、破かないかな。気を付けます、すごく」などとぼそぼそと呟いていて、それでもワンピースに伸ばした手を戻さないでいた。

「ありがとう、ございます。こちらでお待ちしていますので、何かあったらすぐに声をかけてください」

そっと、宝物を預け合うようにして、ワンピースを手渡す。
彼女は小さく会釈をして、あやねがカーテンを閉め切る間に視線を外から逸らしていった。
あやねは、ふう、と息をつく。先ほどついた息とはまるで違う意味合いを含んだ溜め息だった。
自分が今勤務中であることを完全に失念していた。そっと辺りを見渡せば香山はまた別の相手との接客を楽しんでいるようで、後輩はあやねの様子を伺いながら、声かけと衣服の整頓を行っていた。
あやねとようやく目が合ったのだろう、後輩はちいさく拳を見せてあやねを鼓舞する。
どこまでの意味合いのものなのか伝わっているのかはわからないけれどあやねは同じように小さな拳を作ってそれを返した。カーテンの向こうからは、小さな戸惑いの声が時折漏れながら、それでもふとしたときにうっとりとしたため息が聞こえる。あやねは、再び自分の顔に熱が集まっていくのがわかった。

静かに、気付かれないように、寄りそうようにしてカーテンに触れる。

いま自分は、唯一彼女と世界を隔てるものに触れている。

彼女と世界の狭間にはさまる唯一のものだ。

その優越感はぱちぱちと、泡のような音を立ててあやねの心を擽る。

しばらくして、試着室から声がかかった。
カーテンを開けても構わないか、と尋ねると、少しの間があった後「恥ずかしいので、覗いてもらっても構わないか」と尋ね返された。あやねはもちろんと力いっぱい頷いて、そっとカーテンの隙間からその小さな室内を覗き込む。
そこには、深いエメラルドグリーンのワンピースに身を包む彼女の姿があった。
居たたまれなさそうに佇みながらも、口元は変わらずこそばゆいようななんとも言えない形を作って、あやねの言葉を待っている。
ワンピースの全身を覆うレースはいくつもの花を上品に咲かせて描かれ、彼女の足首までもを覆い隠していた。
上半身はややくっきりとタイトなラインで、下半身に向けてマキシ丈に合わせてなだらかに零れていく。先ほどのセットアップだと首元に物足りなさがある印象だった。やはりVネック上のレースが利いているようで、この一着だけでも十分に華やかに見える。

「……素敵です、ほんとに。すごく」

あやねの言葉は、ため息混じりに零れていった。
彼女はたじろぎながらも、ワンピースに身を包む自分自身と、覗き込むあやねの表情を交互に見つめる。

「こ、こんなの初めて着ました」
「わ、じゃあ、新発見ですね」
「新発見」
「はい、おきれいですよ」
「き、」

きれいですか、とか細く落ちた言葉と共に、彼女の頬に涙が伝った。

彼女自身思いがけないことだったようで、はらはらと落ちる涙に慌てて両手で頬を覆う。

「へ、え!?うあ、わ、ごめんなさい、なんで、わ、わわ服が」
「え、あ、わっ、だ、大丈夫です、大丈夫ですよ!」

あやねにとっても突然の事態に、慌てて落ち着かせるような言葉を選ぶけれど確かにこのまま商品にまで零れてしまうのは良いことではない。商品に汚れがつく、というよりも、これを気にして彼女の本意ではない購入に繋がってしまうことが嫌だった。

「ご、ごめんなさ、え、なん、なんで」

彼女は必死にワンピースに涙が零れないように、顔を覆い、それでも止まらない涙に戸惑い続ける。
戸惑いの声の隙間、「うれしくて」と思わず漏れた彼女の言葉がかわいくて柔らかくて悲しくて、あやねは、咄嗟に自信のポケットから一枚のハンカチを差し出した。

「す、すみません!私物なんですが、嫌じゃなかったら!」

差し出した直後、彼女の足もとにあるフェイスカバーの存在を思い出したのだけれどもう遅い。
そもそもフェイスカバーが涙までもカバーできるのかと言われると首を傾げるところだ。
彼女は顔半分を必死に覆いながら、潤んだ瞳であやねを見つめる。
花柄の綿のハンカチは丁寧に折りたたまれており、そのハンカチを握る手はぎゅうと力強く僅かに震えている。

「あ、……え」
「あ!せ、洗濯済ですし、今日はまだ使ってません!あの、今日は昼からの出勤だったので、お手洗いにも、いや、そういう、ことではなくて」
「あ、や、そ、そうでは……、いいんですか……」
「もちろんです、ゆっくり、ゆっくりで構いませんから。慌てなくて大丈夫です」

あやねは、何もかもの意味を含めてそう伝えた。
ハンカチを受け取るのも。涙を止めるのも。自分がなにを着るのか選ぶのも。

「ゆっくり考えましょう」

彼女は、子供のようにゆっくりと頷いて、ゆっくりと、ゆっくりと息を吐いた。

「……はい」

そうして、そっとあやねが差し出すハンカチへと手を伸ばす。

いま身を包むワンピースに触れた時のように大事そうに、おそるおそる伸ばして、あやねの手を取った。

「ありがとう、ございます」

ハンカチを手渡したあやねはそっと自身の手を引いて、周りに気付かれないようカーテンの隙間を狭めた。
いまこの鼻先だけが、彼女の世界の内側にあって、それ以外は全身全霊で彼女を守るような気持ちだった。
あやねの花柄のハンカチでほうと涙を拭いながら、彼女はゆっくりと呼吸を落ち着けて、話を始める。

「すみません、本当に……。服、汚れてたら買い取ります……」
「ああいや、おそらく大丈夫ですよ。気に入ったものを選んでくださいね」
「は、はい……、あの、今週中に、また来てもいいですか。友人にも一緒に見てもらいたくて……」
「もちろんです!よかったら取り置きも承りますので」
「ありがとうございます。きれいって、言ってもらえてすごく嬉しかったけど、こんなのは着慣れないから」
「あ、そうですよね、申し訳ありません急に……。でも、迷っていただけたならすごく嬉しいです」
「へへ、はい。ほんとにありがとうございます」

一度着替えます、と彼女は拭ったハンカチをそっと包むようにしながら、姿勢を整えた。
その姿はやはり誰よりもきれいで頼りなくて、きっと誰も放っておけない。

「……彼女のことが好きだったんですか?」

思わず尋ねてしまった言葉だった。
あやねは自分が何を言っているのか理解をしないまま、ただ彼女と外を隔てるカーテンの隙間だけは何があっても動かさなかった。
彼女は面食らった表情をして、小さく口を開けたあと言葉を選ぶように留まって、ようやく一言、返事を告げた。

「彼女が、私を好きだったんです」

きっとここがフロアの真ん中であったら彼女はこんなことを言わなかっただろう。
きっとここがレジカウンターを隔てた客と店員の距離だけなら答えなかっただろう。
ここでなければきっとあやねは尋ねることができなかった。答えてもらえることはできなかった。
自分と相手だけが向き合ったこんな空間で、閉じ込めるみたいな手段をとらなければ。
唯一彼女の世界に触れる鼻先が汗をかいている。身体が、火照った熱を冷ますように、平静を取り戻そうと働いている。
傷つきながら微笑む彼女にあやねは何ができただろうか。ただやはり、このままで終わりにはしたくないなと心から思った。どうかどうか嫌われてはいませんようにと願うばかりだった。

隔てるように背を向けた世界が、あやねの後ろで息づいていて、それがひどく恐ろしかった。

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