その唇からは林檎と蜂蜜の香りがした

ブルウ - シリーズ

情景の表現なんて豊かに並べていられない。吹きすさぶ風を受ける私の心の中はただただ寒い、寒いとだけ繰り返していた。一時間に一本しか通らない電車はつい十分前にこの駅から発車したところで、たった一両きりの水色の車両がそうして走り去っていくのを、私たちは呆然と見上げていた。「おい」という祈の低い声に納得がいかず、広げた時刻表は一年生の入学式前、最寄りの駅から拝借したもので。一年と半年過ぎてしまえば当然数分単位でダイヤも変わる。乾いた声で笑えば、容赦のない蹴りを脛に見舞われた。もう少し労わってほしいものだけれど、何もかもがこちらの落ち度なので大した抗議も向けることができない。
寒い。田んぼと畑のど真ん中に造られた高校前駅は、汚いプレハブの階段をぐるりと上った先にある。階段に響くかたい足音が私は苦手だったし、地べたに座って煙草を吹かしながら電車を待つ先輩たちも怖かった。駅名が高校前のくせに線路にはいくつもの煙草の吸殻が放られている。証拠があったところで、現行犯で咎められなければ結局何の意味もない。つまらなくて滑稽で、愚かで稚拙で、けれど、ばかみたいに守られているような絶対的自信が、校舎という箱には詰め込まれているようだった。

駅には私と祈しかいなかった。当たり前のことだった。電車はさっき出たばかりで、今の時刻は十三時を過ぎたところで。高校前なんて名前の駅を使うのはその名の通り私たち制服に身を包んだ馬鹿者たちが主だった。周りの田んぼや畑の所有者たちは、亀の様な速度で進むディーゼル車よりも自分たちの軽トラックを好むし、そもそもここから歩いて十五分もすればもう一駅、定期券も買えて駅員も常駐している駅があるのだ。屋根だってあるから私たちのように鼻を真赤にして風をしのぐ必要もない。鳥の糞をよけて看板にもたれかかり、携帯電話を取り出す。開いてからすぐ閉じて、ポケットに入れたところで本来の目的を思い出しもう一度取り出す。時刻は十三時を過ぎてまもなく二十分が経過するところ。先程確認してから三分が経っていた。馬鹿らしい。
耐え切れず、寒いと呟いたけれど、隣にいる祈は返事もせずに汚いブックカバーが掛けられた文庫本を黙々と読んでいた。長い髪が風で乱され視界の邪魔をして、普段から不愛想な顔がより一層険しくなっていた。お互い短く折られたスカートははしたなく揺れ、ページを捲る度薄い紙がばらばらと音を立てている。破れてしまわないのかと心配になりながら、私は尋ねた。

「祈さん、なに読んでんの」

祈は答える。

「馬鹿にはわかんねえ本だよ」

酷い答えだ。

「あの、一応さ、私図書委員だよ。毎月図書だよりの為に懸命に読んだりもしてるわけよ」
「先月の図書だよりでお前なんの本お勧めした」
「三匹のやぎのがらがらどん」
「言っとくけどそれうちの図書室にないからな」

そう言って、祈は呆れたように文庫本を閉じて鞄からポケットティッシュを取り出す。鼻でも噛むのかと思えば当然のように差し出された。どうやら鼻水が出ていたのは私らしい。礼を言ってそれを受け取る。鼻先にあてると、ふわりと柔らかい花の香りがした。祈の持ち物からはいつもいい香りがする。持ち主は近付こうもんなら刺す、というような堅い空気を纏わせているのに。どういう信念のもとでの矛盾なのだろう。私にはわからない。わからないけれど、いい匂いのする祈が私は羨ましいし、なんだかとても勿体ないと思ってしまう。鼻を噛みながら、激しく揺れるページをそっと盗み見た。見間違いでなければおいしそうなハンバーガーの絵が描かれていた気がする。そういえば何やら先日漫画家のエッセイ本を買ったと言っていた、それのことだろう。いつもすましているので賢そうに見えるのだけれどこの女はどちらかというとファッション誌や漫画を好むのだ。以前「芥川龍之介が」と話した時に「ああ、あのポセイドンの人」と当然のように言ってのけたような女なのだ。馬鹿はお前の方だろうと言ってやりたくなる。因みにポセイドンとは羅生門のことだった。音でしか覚えていないとはどういうことなのか。
鼻をかんだテッシュをくるくると丸めて、どこに捨てようと辺りを見渡す。駅の待合にゴミ箱はない。置いておけば最後、誰もかれもが無差別に放り込むことが目に見えているからだろう。仕方なく丸めたティッシュをブレザーのポケットに入れた。ものすごく不快だったけれどずっと手に持っておくのも嫌だった。はあとため息をついてもう一度「寒い」と呟く。そうするとようやく祈が本題を話し始めるのだった。

「ナツ、なんで倒れたの」

本題、といってもそれは祈からする本題で、私からするとどうしようもなく避けておきたかった話なので、当然目は泳ぐ。ああ、ああー、と思案するように繰り返してから隣を見やると、長い睫毛が影を作るだろうほど目をきつく伏せて、私の答えを待っている姿があった。文庫本は閉じられている。

倒れた、というのはつい数十分前の休み時間の出来事で。そろそろ生物室に移動しなくてはいけないなあと、席を立った時に起きたことだった。ふらりと重心を保てず傾いた身体がそのまま、大きな音を立てて地面にぶつかっていってしまったのだ。無駄にある身長のおかげで周りが振り返るくらい派手な音を立ててしまって、いたいと呻く前に周囲がこちらの安否を確認しに寄ってきたのが恥ずかしかった。そしてだいじょうぶ、と返事をしようと眉を下げて口角を上げたところで、一番近くにいた祈に胸ぐらを掴まれたのだ。そのまま低い声で「帰るぞ」と無理やり体を起こされた。

「寝不足、かもなあ」

曖昧に、濁すように返事をする時には、とてもじゃないけれどその姿を見てはいられなかった。ざらつく左の太腿をスカート越しに撫でる。ツキツキと痛むその場所が答えなくてはいけない一等のものだとわかりきっていながらも、声は震えた。
フン、と、祈が鼻を鳴らす。

「気付けよちゃんと」

自分のこととか。と、そこまできちんと聞こえはしたのだけれど、私はそれが風音に紛れたふりをしてまた乾いた笑いを向けて誤魔化す。祈は不満げだった。祈はいつだって不満げだ。私はいつもそれに甘えてしまっている。甘えて、もう一度笑いかけると文庫本で頭を叩かれた。痛い。痛いけれど、安心してついつい更に腐抜けた顔で笑いかけてしまう。文庫本越しに見える祈りの口がぐにゃりとへの字に曲がって、空いている手で右腕を掴まれた。どうするのだろう、とされるがままにしていると、ぐいとその腕を自身の鼻に寄せて、思いきり鼻水を拭い始める。

「げ、ちょっ、と、何すんの」
「うるせえ」
「うるせえじゃないっつうの!きたねえ!」

ただでさえ裾に穴が開き始めて無残な姿の私のカーディガンが。私の愛しのカーディガンが取り返しのつかない姿にかえられていく。いや既に取り返しはつかないかもしれない、そもそも裾に穴が開いている時点で買い替えなくてはいけないのだ、わかっているのに面倒で、更に言えば女子高生の少ないバイト代では年に何着もカーディガンを、なんて贅沢なことも言えなくて、先延ばしにしてしまっていた。

「うわあ、もうほんっとありえねえ…新しいの買う…」
「ざまあみろ」
「ざまあみろって…」
「新しいやつ、一緒に選んでやるよ。喜べよ」
「あー、うん、ありがと…」

そうして祈がまたフン、と鼻を鳴らしたところで、線路わきに悲しく建てられた信号がぴかりと黄色く光る。快速電車が通過します、というノイズ混じりのアナウンスが近くのスピーカーから響いた。風が冷たい。風はずっと冷たい。こんなことなら少し面倒でも一駅分歩いて、次の駅で快速に乗ってしまえばよかった。そうしてそのまま街まで繰り出して、一緒にカーディガンを見て、高校生御用達のゲームセンターでプリクラでも撮ってファストフード店でポテトを食べて、暗くなった頃に解散できた。午後の授業はたいした教科でもないから、明日別の子からノートを見せてもらえばなんとでもなる。祈は私以外の子たちとあまりつるまないから、私がそれをやらないといけない。
ただ、それでも、今日はもう私たちはこうして電車を待っていることにくたびれてしまったし、カーディガンはどうせ今晩洗濯して少し縮んだものを明日また着るだろうし、私はまたこの左の太腿のガーゼを張り替えるし、それを祈に言うことはできないのだ。例え祈が察していても。

スカートのポケットにずっと忍ばせているカッターナイフが固い。刃が出ていないかと指先で撫でる度にぞくぞくする。


そしてそうしていないと私はまともに息なんてできやしないのだ。
そうしていると、まともに立ち上がれもしないくせに。

「電車通るの寒そうだなあ」
「そうだなあ。…ん?」
「あ?なに祈」

髪が音を立てるようにして、私たちの視界を塞ぐ。祈が向かい風をばしばしと浴びながら、こちらに顔を寄せてきた。

「ナツ、からなんか、いい匂いした」
「え?」

すん、と、顔が近づいてきた。お互いの髪が風に吹かれてぐしゃぐしゃに混ざって、もう視界はめちゃくちゃだ。「なんか、甘い匂い」と探るように祈が呟く。甘い匂い。なんだろうか、と少しばかり考えて、応えは案外とすぐに出てきた。

「あ、これだ」

ブレザーのポケットから取り出す。コートには鼻をかんだティッシュ、スカートのポケットにはカッターナイフ、あちこちに無造作に物を入れる粗雑さが顕著にうつると、我ながら呆れてしまう。そしてブレザーのポケットからは、一本のリップスティックが取り出された。
祈が訝し気に容器に書かれた文字を辿る。

「…?アップルアンド、ハニー?」
「の、香りのするリップ」

ふうん、短く納得しながら伸ばされた手が、私の頬を撫でた。祈は掌からもいい香りがする。ハンドクリームだろうか、これはなんの香りなのか。それは、私が身に着けても滑稽なものではないだろうか。

撫でた掌が、ぐにりと私の頬を摘まんだ。

「バーモンドカレーだね」

快速電車が通過した。
走り抜ける音が耳に響く。
風は冷たくて痛い。 

(2018/01/20)

タイトルとURLをコピーしました