アスファルトを蹴る度、擦れる靴裏に火花が走ってるみたいな気がした。
いつからこうして走っているのかもうよく覚えていない。
いつぶりにこうして走っているのかもきちんとは思い出せない。
思い出そうとするよりも今は、間に合うのか間に合わないのか、そこにあの人がいるのかいないのか。ただそれだけだ。それすらも、きっとあの人がその場所にいる未来だけを選択して、息を切らし走り続けている。
胸が痛くて、喉が痛い。ひいひいと鳴く喉元が明日使い物になるのかもわからなかった。
とめどなく零れる涙を拭う暇もなく、ただ鼻だけは、詰まると息が余計に苦しくなるので一生懸命啜っていた。
居間に放り投げたままのスマートフォンは、今頃何かの通知を知らせているだろうか。
もしかしたら、あの人からの連絡も届いているかもしれない。
だけど、でも、その連絡を目にしたらきっと私はあの人を諦めなくてはいけなくなる。
これが最後のチャンスだった。いかないでくださいと伝えられる最後の日で、最後のタイミング。
私はまだずっと子供で、いまも学校帰りの制服姿のままで、部屋着に着替えるのも面倒だなんてソファに転がっていたからスカートはきっと皺になっている。
きぃちゃんはお母さんに似て美人さんなんだから、だらしない格好をするのはもったいないよと、あの人はよく笑って言った。そうやって笑った時の目尻の皺が私は猛烈に好きだった。それを見ただけで、見る度に「好きです」と伝えていたら、段々あの人は困ったようにしか笑わなくなってしまった。
だけど、でも、そうしないと伝える手段なんてひとつもなかったから。
やだ、やだ、ぜったいにいやだと、吐きだす息と一緒に零れる悲鳴が、余計に自分の喉を裂いていく。
両足はもうがくがくで、今すぐにでも足を止めたかった。だけど絶対に止められなかった。
あの人の低くかすれ気味の声を思い返すたび、その声が私の名前を呼ぶのを思い出すたび、私は強くアスファルトを蹴る。火花を散らす。ちかちかと、夜の足跡を瞬かせる。
「行っちゃやだぁ……」
私はまだずっと子供だから、こんな駄々をこねる真似をするしかあの人を振り向かせる手段がない。
横切った公園の時計塔が、夜の七時を示していた。あの人の乗る電車が出発するまであと七分だった。
「春原さん、春原さん……」
うわ言みたいに読んだ名前が、夜に溶けていく。
大好きなあの人の背中を追いかけるように吐き出しても、溶けてしまえば何の意味もない。
――――
春原さんは、今は亡き父親の弟だった。
なぜ名前で呼ばないのかというと父親は婿養子で入ってきたため姓は母親の実家のものだったし、春原さんと初めて出会った時私はもう十六歳で、あなたの叔父さんよと紹介されたところでピンとはこなかったからだ。
春原さんは長い間外国にいて、それがもうひどく辺鄙な所だったようで、日本の家族と連絡を取る手段も殆どないままで、十数年ぶりに日本に帰って来たのだと話していた。帰って来た時にはもう春原さんの兄は――私の父は――亡くなっていた。「そんなことが本当にあるのかあ」と、涙を流す春原さんを母は薄情な人だと詰り、私は大人の男の人の泣く姿を物珍しく眺めていた。
それからしばらくの間、春原さんは日本にいた。
海外にいた時の報告をしなくてはいけなかったり、諸々と疎かにしていた庶務を片付けなくてはいけなかったらしい。私の家と春原さんが仮住まいにしていたアパートは電車で二駅ほどしか離れていなかった。
母は春原さんのことをあまり好いてはいなかったので、私はいつもこっそり春原さんに会いに行っていた。
外国では何をしていたのかと尋ねると、春原さんはにこにこと笑いながら「最近はね、井戸をね、掘っていたんだよ」とこたえてくれた。
「井戸は掘れたの?」
「うん、うーん、あと少し。なのかもしれない。僕は途中で帰ってきてしまったから」
「どうして?すごく長くいたのに最後までいなくていいの?」
「向こうで色々あってね、一旦帰らざるを得なかったんだ。でも、日本での仕事が終わったら帰るつもりだよ」
「変なの」
「なにが?」
「春原さん、どっちの国にも”帰る“って言った。日本にも、向こうの国にも帰れるんだね、すごいね」
「ああ、……本当だね、おもしろいね。本当だ、僕の帰る場所って色んな所にあるんだね」
春原さんの声は煙草のせいで少し掠れていて、時々聞き取りづらかったけど口調のせいかテンポのせいか、なぜか聞き心地は良かった。
「兄さんのところにも、いつか帰るのを許してはくれるのかなあ」
春原さんは、父の墓の場所をいつまでも教えてはもらえなかった。
私が案内しようとしたこともあったけど、春原さんに「それはだめだよ、君のお母さんが許してくれないと何の意味もないよ」と窘められてかなうことはなかった。
春原さんの部屋にこっそり通っていることを、母は気付いていたと思う。
気付いた日は大抵、なんとも言えない複雑なかおをして、それでも咎めることはしなかった。
働きに出る自分と過ごす時間の少なさを申し訳なく思っていたところもあるのかもしれない。誰のせいでもないのに、母はそういった融通の利かない真面目さや優しさを持つ人だった。
だからこそ、春原さんを許すのにも時間がかかったのだろう。
そして春原さんもそんな母が許してくれるのをじっと待ち続けていた。
私は、そんな春原さんのことを好きになった。ひどくなだらかな流れでのことだった。
春原さんの住む薄暗いアパートの中、不思議と静かな空気を纏った空間の中。
私はいつもそこで学校の課題をしたり、読書をしたり、友人と連絡を取り合ったりしていた。
春原さんはそんな私をいつも放っておいてくれて、話しかければ短い返事が返ってきて、時折会話みたいになって。そんな空間の中で、春原さんの目尻の皺に気が付いた。気が付いたとき「好きだな」以外の感情が思いつかなかったので素直に「春原さんのことが好き」と告げた。
春原さんはぽかんと口をあけて私の顔を見つめてから、にこにこと笑顔になって「ありがとうね」と言ってくれた。伝えてもこうしてかわされてしまうのだから、言葉にしなければ一生気付こうとはしてくれないとその時思った。思ったので、それからは「好きだな」と思うたびに「好きです」と告げるようにしていた。
春原さんは段々困った顔で笑うようにはなったけれど、一度も「ごめんね」とは言わなかった。
――――
おかしいと思ったのだ。
最近アパートに行っても留守でいることの方が多かったし、今日も同じくそうだった。
積み上がる本の隙間に挟まる色んな書類や封筒が、最近は見当たらなかった。
母親もおかしかった。いつも私より早く仕事に行くくせに今日に限ってゆっくり支度をしていて、今日はお母さんが戸締りするねなんて言って、玄関で私の見送りをしてくれた。
私は不思議に思いながらも、遅出の日だったのだろうと解釈して、帰宅後誰もいない家の居間でぼんやりスマートフォンをいじって過ごしていた。春原さんのアパートで勉強する癖がついたせいで、家に帰ると何もする気が起きなかった。
なので七時前に母が帰宅してきたのには驚いた。
普段早出だとしても八時前、遅出であればもっと遅くに帰宅するというのに、なぜこんな時刻に帰宅できたのか。
居間に入ってきた母親は、黒いワンピース姿だった。父の葬式や法事の度タンスから出してくるワンピース。
母がその服を着る時私は必ず制服を着て、普段羽織るカーディガンも我慢してボタンを一番上まで留める。
そういう、特別なワンピースだった。
「あのね、きぃちゃん」
母は俯きながら話し始めた。
「今日はね、お父さんの弟さん…叔父さんと、お父さんのお墓参りに行ってたの」
私は続きを聞くのが怖くて怖くて仕方がなかった。
「叔父さんまた遠くに行くんですって」
「遠く?」
「そう、二年前まで行ってたでしょ?同じところに行くんですって」
「なんで?」
「大事なお仕事があるからよ、当たり前でしょう?」
「なんで」
「貴佐子、お別れの連絡だけしておきなさい。ね」
私は、春原さんはもうここには帰ってこないのだと確信した。
春原さんは、「この場所」にも「あの場所」にも帰れる人だから、もう帰ってこない。
そう確信した。
「いつ行くの?」
「さあ……ひとまず今夜にはもう東京に向かうって言ってたけど」
「え?今日?今夜?いま?」
「そうね、七時七分発だったかな。電光掲示板に書いてあったから……、って、きぃちゃん!貴佐子!」
母が私の名前を呼んだ時、私はもう玄関を飛び出す寸前だった。
母は私を呼び止めようとしていたけど、ここで口論する時間はもうなかった。私の家から駅まではどれだけがんばって走っても十分はかかる。時刻はもう、六時五十五分を指していた。
適当に履いたスリッポンで無理やりアスファルトを蹴って、駆け出していく。
アスファルトを蹴る度、擦れる靴裏に火花が走ってるみたいな気がした。
その度溢れてくる涙が視界を邪魔した。拭う時間も惜しかった。
いかないでくださいと伝えるしか、子供の私にできることはないのだ。
春原さんが好きだった。
言葉と気持ちが裏腹に見えるようなぼんやりした話し方。
堅そうな椅子に座ってパソコンに向き合う時のひどい姿勢。
タバコの吸いすぎで掠れ気味の声。だけど私の前で吸う時は必ずベランダに出て行った。
お父さんの話をすると春原さんはすぐに泣いてしまうので、「私も一緒に泣いちゃえるから助かるな」と言ったら余計に泣いて大変だった。
笑う度にみえる目尻の皺。困っている時すらその皺がみえるので、いくら困らせても平気だった。
何度「好きです」と告げても一度も「ごめんね」とは言わなかった。
何度「好きです」と告げても「それは違うと思うよ」とは言わなかった。
私のどんな気持ちも、誰のどんな気持ちも、責めようとしない人だった。
公園を過ぎれば、あとはまっすぐ突き進むだけだ。
段々街灯も増えて人通りも増えて賑やかな駅前に近付いていく。
私は自分がどれだけみっともない姿でいても構わなかった。誰にどんな目で見られても構わなかった。
ただいま目指すその場所にあの人がいてほしい。それだけだった。
神様、神様、神様、神様。
見たこともない誰かに縋りたいとき繰り返す呪文。
私一人じゃどうにもできない時間を動かすときに繰り返す呪文。
神様、神様、神様、神様。
「すのはらさ、」
好きです、と伝えさせてほしい。
もう伝えられない人がいるから。
もうどうしたって笑い返してはくれない人がいるから。
お父さんはもういないから。
せめてどうか、こうして繰り返すことを許してほしい。
「すの、はら、さん」
夜に溶けていく。私の願い事も。あの人に向かう名前も。涙も、呼吸も、我儘も。
「いっちゃやだあ」
改札前。夜か昼かも見分けられない明るさに照らされて、私の足はようやく立ち止まった。
行き交う人の視線に気付かないではなかったけど、今はもうそれどころではない。
改札上に提げられた掲示板に目を向ける。時刻は七時八分。七時七分発の電車のアナウンスはもう消えていた。
「…………」
汗か涙かもわからなくて、ただ荒い呼吸を整えることもすぐにはかなわなかった。
間に合わなかったのだ。どれだけがんばっても、どれだけ駄々をこねても、叶わないものはあった。
今まで私の願いが叶っていたのはきっと、春原さんの優しさがあったからだった。
荒く、肩で息をしながら改札の向こうを見つめる。
知らない世界のように人が行き交う。日常の欠片のひとつのようにみんな歩いていく。
ひと時の夢だったのかもしれない、たった二年間の。二年もの間の。
私はゆっくりと踵を返して、居間に放り投げたスマートフォンに思いを馳せ始めた。
何かメッセージは届いているだろうか、どんなメッセージを送ろうか。これから先、送ることはもう叶わないのだろうな。
びしょびしょの顔を拭って、家路へと向かう。その時だった。
「――きぃちゃん!」
振り返る。よく知っているその声に。低く、少し掠れがちな聞き取りづらい声。
「……、あ」
伝えてもいいだろうか。もう一度だけ。許してくれるだろうか。
神様。