やはり親友とかいうやつはいいもんでもない

ブルウ - シリーズ

扉から出てまず確認することは自分以外にこの場所の利用者はいないか、ということだった。統一されたクリーム色の扉が、全て開け放たれていることを確認してまず一息。そうしてからおぼつかない足取りで手洗い場まで進んで、鏡越しの自分の顔色を眺めてから重く一息。新校舎の手洗い場には蛇口がない。センサーに向かって手のひらを伸ばせば、心地いいほどの冷水が両手を濡らした。不安定に置かれたハンドソープのポンプを押して、桃色の液体を乗せる。ふくふくと泡立つ色もまた桃色に見えるのはハンドソープそのもののせいだろうと、言い聞かせた。鈍く痛む左の太腿の血は、トイレットペーパーと一緒に粗方流せたはずだ。あとは恐らく、スカートの内側を汚す程度で。構わないのだ、もう、私たちの代でこの制服は変わってしまったし、来月には夏休みに入るし、その後も、少し我慢してしまえば衣替えだ。なんてことはない、ただ両親にばれなければ、教室にばれなければ、何の問題もない。
汚れを溶かした泡を、水で洗い流す。蛇口から溢れる水の刺激に安堵してまた一息。再び顔を上げて、自分の顔色を確認する。数秒前と何も変わりはしない。真っ青で、虚ろで、黒ずんだ隈を携えた、ひどい顔のままだった。前髪に張り付く汗の要因が内側からか外側からかよくわからない。
嘘だ、一番、自分が分かっていた。
もう一度吐いた息は、下手くそな自分の呼吸だった。震えて、今にも泣きだしそうで、あまりにも滑稽で。誰にも聞かれるわけにはいかない。
その時だった。

「あれ、ナッちゃんだ」

静かな音を立てて開いた扉の向こうから、よく知る人物が現れた。せっかく吐いたものがひゅうと音を立てて戻っていく。動揺は不自然ではなかっただろうか、伝わってはいないだろうかと巡らせながら、相手の名を呼ぶことでごまかす。

「ヒナちゃん。びっくりした」
「ええ?そんなに?」

入室してすぐにある手洗い場用のスリッパに履き替えて、相手は首を傾げる。可愛らしい仕草だった。クラスメイトである彼女は――夷隅ひなは――彼女自身に似合う、女性としての仕草を、よく自覚している子だった。

「こんな時間にヒナちゃんが残ってるの珍しいなあって思って」
「彼氏がね、迎えに来てくれることになったから時間潰してたの」
「あ、そっか。いいねえ、なんか」

なんか、って、なんだろう。
馬鹿にしているわけでもないけれど私もそうでありたいのかと言われるとよくわからない。恋と呼ばれるものを誰かと二人で行えた試しがないし、ただ、大事にされるということは素敵なことだろうと思う。そんなあやふやなあれこれが結局「なんか」の一言にまとめられてしまって、結果、やはり馬鹿にしているような言葉になってしまった。
ヒナちゃんは気にした様子もなく、けれどすぐに個室に入ろうとはせずに、「ふふ」と微笑みながら振り返ってくる。

「ナッちゃんこそ珍しいね。今日はバイト休みなんだ?」

ヒナちゃんは、振り返る仕草ひとつだけでも、可愛らしい。本当に、可愛らしい。ハーフアップにされた髪が、翻るスカートに合わせて揺れていた。ハンカチを出すことも煩わしく水気を払う私が同じことをしたとして、こうはならないだろうと素直に感心してしまう。

「バイト火木土日だから。今日は祈が居残りなんだよ」
「ああ!大久保さんかあ、なるほど」

祈の名を聞いて、ヒナちゃんは合点がいったと一層笑みを明るくする。祈、大久保さん、つまり、私たちのクラスメイト、大久保祈のことだ。私が祈の名を出すことは、何においても納得しやすい材料らしい。それは、他のクラスメイトでも言えたことだけれど特に、ヒナちゃんは特に、私たちが二人でいることを重要視しているように思えた。
両手を重ねて、ヒナちゃんは続ける。

「大久保さんとナッちゃんはもうセットだよね」

そうやって、はっきりと、私たちに向かってそう告げるのはヒナちゃんくらいのものだった。「そうかなあ」と僅かに濡れた手で頭をかけば、すぐさま「そうだよ」と可愛らしく返される。

「だって一年の頃から一緒にいるのよく見たもん。いいなあ、なんかまさに親友ってかんじだよ二人」

その、「なんか」は、私が思わず漏らした失言の「なんか」と、同義のものなのだろうか。それとも。言葉の響きの通りのもので、私は殴られているのだろうか。
ヒナちゃんは、可愛い。友達もたくさんいる。グループの中でも一番可愛らしいし、クラスで一番派手な子たちともうまくやっているし、大学生の恋人もいるし、勉強だって悪すぎず良すぎず。運動もそれなりで、歌声が可愛い。

殴られているのだろうと思いたくはなかったけれど、殴られていると判断する方が、ずっと楽だ、というひどい偏見がまた自分を殴って、足の傷は痛む。

「はは」

乾いた笑いを返す。ヒナちゃんはまた「ふふ」と、さえずるようにして笑っていた。

「私らが親友だとしたら」

わかっているのだ。この続きを言ったとしたって、ヒナちゃんは可愛い声で反発するのだろう。



「ヒナちゃんにさ」
「んー」
「私と祈って傍から見てもまさしく親友ってかんじだよね、って言われた」
「はは」

教室にはもう私と祈しかいなかった。いつもなら地味な男子たちが無駄にたむろしているのだけれど、祈の無言の圧力に耐えられなかったのか、今日はいなかった。二人きりなのをいいことに私は祈の前の席を無断で借りて、シャープペンシルの芯で塗られていくノートをじいと観察している。窓の外からは下校するのだろう生徒の話声や原チャリの音。運動場からは、野球部の掛け声が聞こえてくる。実習棟からは、管楽器の音が響いていた。楽器に詳しくない私は、どの音がトランペットで、どの音がサックスでトロンボーンなのかなんて全く分からない。とりあえず、誰かが何かを吹いている音がした。この教室の中から漏れるのは時計の秒針と、かりかりとノートを走るシャープペンシルの音くらいのものだ。動くものはそのふたつと、私のノートと自分のノートを行き来する祈の両目。ゆるくまとめられたお団子頭は、昼に整えてから崩れていない。それとは反対に、適当に梳かした私の長い黒髪が影を作るようにして机の上に落ちていた。
私はつられて笑う。

「笑うかなそこで」
「笑うだろ」

そうだとしたら親友ってあんまりいいもんでもないな。
祈は言った。私が、ヒナちゃんに返した言葉と全く同じものだった。世間は、ヒナちゃんは、私たち二人のこういうところを「親友」と呼ぶのだろうか。

「ていうかさ、祈さんまだ終わんないの?」
「終わんねえ」

祈はさっきから今日提出の課題をやっている。正確に言うと、私が仕上げた課題を写している。それだけに留めると祈ばかりが不名誉な称号を与えられそうではあるのだけれど、そんな私の課題もヒナちゃんから借りて写したものなので、同罪となってしまう
祈は、シャープペンシルを放り出し、右の手首をふらふらと揺らす。ああ、とうんざりとした声があがるのを私はへらへらと笑って受け止めながら、そのきれいな指先の、ぴかぴかと光る薄桃色の爪に見蕩れる。

ヒナちゃんがいつだって可愛らしいように、祈も、祈は、いつだってきれいで、いつだってきれいであるためのやり方を器用にこなしていくので、私はいつもそんな祈に見蕩れて、傷ついている。

ゆらした手首をぎゅうともみながら、祈はぼやく。

「やばいんだよなあ。私これ出さないと通知表1つくって言われた」
「は?マジ?」
「うん」
「早く言えよ。締め切りあと30分じゃん」

振り向いて、黒板の上に設置された壁時計を確認した。正確に言うと、締め切りとなる夕方5時まではあと24分だった。間に合わせる、と祈は言うけれど、課題の量は相当なものだ。まだ仕上がっていない、と聞いたのは今日の五限の終わりの頃だった。
早く言ってくれたら、すぐに貸してやれたのに。
そう言ってやろうとして、口を開きかける。けれどそれは、祈の言葉によって止められた。

「ナツもやってないと思ってたから」

祈は、顔を上げない。私を見ようとはしない。視線はじっと、ノートの上に放り出した水色のシャープペンシルのほうにあった。労わるようにして掴む祈の手首は白く細く、女性らしい曲線をえがいてゆらりと垂れる。
私はそんな祈から目が離せない。傷つく隙間もなく、ただ傷つけた合図にばかり息を呑んで、何も言えずに祈を見つめ続けている。切りつけたばかりの太腿が痛む。祈は諦めたようにして、ノートの上のシャープペンシルをとった。

「夷隅のノート写してたなんて思ってなかった。知ってたらさっさと借りてたのに」

自分の口が、魚みたいにぱくぱく動いていた。太腿の傷が痛む。ガーゼのかわりに履いたスパッツに、乾かない血が滲みこんで、多分、次に立ち上がった頃には、乾きかけた傷口がはがれて、また汚れる。それでも、そんなことはわかっているのに、何を伝えたらいいのか全くわからなかった。

自分を傷つけることはこんなに簡単で、お手軽で、安心するのに。
どうして他人にそれをしてしまうことに、こんなに躊躇するんだろう。
誰かの誰かになるだなんて、そんな恐ろしいことをどうして周りは望めるんだろう。

ヒナちゃんに言われた言葉が、殴られたみたいな大きさで自分の体の中を巡る。

――だって一年の頃から一緒にいるのよく見たもん。いいなあ、なんかまさに親友ってかんじだよ二人。

ヒナちゃん、そうだとしたら親友ってあんまりいいもんでもないよ。

「何ぼけっとしてんのナツ」
「いてっ!おま、シャーペンで人を刺すな!」
「じゃあ人の前でそのアホ面やめて」

そう言って、わたしを睨みつける祈はいつもと変わらない様子だったけれど。何かに勘付いているのだろうことは、なんとなく察してしまった。祈は、ずっと私の言葉を待っている。お互いするどくて敏感で、お互いを必要としすぎている私たちは、いつだって不安定だ。

そんなことわかってる、きっと祈もわかってるのに。

「ナツ」
「あ?」
「…先帰っててもいいんだよ」

祈の声が、いつもより少しわざとらしかったので、私は「いや、一緒に帰るよ」と笑って言った。いつものように、へらへらと笑いながら祈の指先だとか睫毛だとかいいにおいのするセーターの袖口だとかを羨んでいた。
傷口が痛んで、安心する。
やはり親友とかいうやつはいいもんでもない。

(2019/12/15)

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