どこから間違いだったのかしら

ブルウ - シリーズ

小論文の授業はみんな指定された教室へと散らばるからとても楽だ。教室、情報処理室、図書室。まだこの課題は始まったばかりのものなので、大抵は調べものをしてくる、と言って教室を離れていくし、自分はあまりやる気がないけれどグループの人間が移動するので、と言って後をついていく生徒も多い。
僕もまた、友人に情報処理室に行こうと誘われた。けれどその前にこっそりまとめてしまいたいレポートもあったし、資料は事前に揃えられたからと教室に残ることにした。
――それが間違いだったのかしら。それが間違いだったのかしら。
気付けば、教室は僕と彼女の二人だけになっていた。
僕らなら妙なことはないだろうと先生は他の教室の見回りに行ってしまった。

「大久保さんは?行かないの?」

僕は声をかける。というのも、たった二人しかいないというのに僕と彼女の席は偶然にも隣同士で、彼女はまともに授業を受けるつもりがないようで、それだけなら堪えられたのだけれど彼女はいつまでもいつまでも、シャープペンシルの芯を出したりしまったりを繰り返していた。つまり、うるさかったのだ。
必要はない情報と思い省略したけれど、やはり先程の説明に一部修正を加えよう。
先生が僕らを見放して教室を後にしたのは、地味でコミュニケーション能力の低い僕なら彼女と無駄話をして授業放棄をすることはないだろうと思ったし、彼女についてはなんというか、もう、ただただお手上げなので放っておこう、と判断したのだ。恐らく。
彼女――同じクラスの大久保祈さん――は、興味のないことにはとことん興味を示さない、協調性のない、恐らく大人から見ると『可愛げのない』生徒だった。

僕の問いかけに、大久保さんはちらりと視線だけをよこして答えてくれた。

「私もう調べるものないから」

そう発言する彼女の机の上には白紙の原稿用紙と、前回の授業でプリントアウトしたのだろう資料が一枚だけあった。対して僕の机の上にはプリントアウトした資料数枚と草稿とまではいかないけれど要点をまとめたルーズリーフ。僕は心の中でそっと「あとで苦労しろ」と悪態をつきながら「ああ、僕も」と伝えた。

僕は大久保さんが苦手だ。その清々しいくらいの協調性のなさには羨ましさも感じるけれど、真似をしたいかと言われるとそこまでは思わない。極端すぎるとさえ思う。容姿は整っているし、器用に気遣われた髪型や服装にも清潔感がある。ただ整いすぎて人を寄せ付けようとしない雰囲気が怖い。都会のもっと自由度の高い学校であれば成立しただろうけれど、ここは片田舎にある何の変哲もない公立高校で、更に言えば進学校でもない。緩やかに流されるように生きてきた人間の集まりやすい、やさしく守られたような箱だ。彼女のその尖った姿勢は周りを――特に男子生徒たちを――怯えさせる。

大久保さんはとてもきれいだと思うけど、少し怖くて苦手だからそういう目では見てないかな。僕はどちらかというと、守ってあげたくなるような愛らしい女の子が好きだよ。

それを言ったのはつい先日のことで、なぜそんな発言をしたかというと、所属している委員の当番の時に「大久保祈をどう思う」と尋ねられたからだった。曰く、僕と彼女の席が隣同士になってから、僕が彼女をよく見ていると感じたからだそうだ。それは今現在のように彼女がシャープペンシルとの戯れをやめようとしないからだ。深読みも大概にしてほしい。
僕の答えに対して相手は「あんた本当に意外性がないね」などと言い放った。僕の何を知っているというのか。そんな無神経なことを平然と言い放つのは、大久保さんと唯一仲の良いこれまた僕らと同じクラスの雛瀬ナツさんだった。彼女は彼女で無神経なところがあるし、何よりがさつで言葉遣いが汚い。大久保さんに並んで、僕は雛瀬さんのことも苦手だった。できる限り関わりたくなかったけれど、運の悪いことに彼女と僕は同じ図書委員に所属しており、当番が重なってしまうとどうしても接触を避けられないのだ。

苦手な人に関わってしまい、更にまた別の苦手な人のことまで思い出してしまい心が淀む。切り替えて目の前の課題に取り掛かろうときゅうとシャープペンシルを握り直す。ここで集中して仕上げることができれば後の自分に余裕ができるのだからと鼓舞しながら視線を文字に集中させようとする、そのタイミングだった。

「ナツと仲良いよね」

突然、隣から声をかけれられた。
自分に向けてではないと思いたかったけれど、生憎この教室には僕と彼女しかいない。なんなんだ、と視線を向けると隣に座る彼女は頬杖をつきながらこちらの様子をじいと伺っていた。美人に凄まれると、それだけで尻込みしてしまう。
僕は答える。

「…委員が一緒なだけだけど」

彼女は問いかける。

「なんで図書委員って男子と女子一人じゃないとだめなの?」

それは僕に答えられることではないだろう、と、開いた口がそのまま彷徨う。
そらしたい視線は僕の身体を貫く勢いで、それを許そうとはしてくれない。
彼女は続ける。

「私、ナツと一緒に委員やりたかったんだよね」

そんなことを言われても。先ほどから僕にはどうしようもない話ばかりだ。

「でもナツは図書委員やりたいってさ」
「へえ」

ようやくできた返事はただの相槌でしかなかった。僕にとっては勇気ある第一歩だったというのに受けた側である彼女はそんなもの気に留めようともしない様子だ。
もしかするとただ誰かに話をしたかっただけなのかしらと呆れると同時に、特定の相手以外とはまったく群れようともしない――ように見受けられる――彼女にしては珍しいな、と思った。
僕がぼんやりと驚いていると、彼女は続けてとんでもない仮説を立ててきた。

「ナツってあんたのこと好きなのかな。だから一緒にやりたくて図書委員になったとか」

本当にとんでもない。
たとえ願い下げの相手だったとしても、色恋ごとに対する免疫がまるでない僕は簡単に動揺してしまう。

「えっえ、そ、それはない、いや、それはないでしょ」
「そうね、それはないか。あいつの好きな男バイト先にいるし」
「…………」

なぜ僕が勝手に惨めな気持ちにさせられているのだろうか。慌てて上げた手が汗ばんでいるのがただただ情けなく、僕は静かに拳を使ってその手を下ろす。

「知ってる?あいつさ、9歳も年上のキツネみたいな顔の男に惚れてるの」

知っているわけがないし、本当にどうでもいい情報だったので僕は再び「へえ」と相槌を打った。ただただどうでもいいけれど、あの雛瀬さんが片思いとはいえ恋愛しているというのは少し意外だった。彼女は僕の相槌がお気に召したのか僅かに口角を上げて「そうなんだよ」と答える。相手を適当に選んで気分転換をするのはやめてほしい。げんなりと視線を逸らし、シャープペンシルを握り直す。今度こそ課題に取り掛かりたいのだ、と小さく溜め息を吐いた。

そこで、彼女がまた突拍子もないことを口走る。

「私だけのナツだったのに」
「は?」

これにもまた思わず顔を上げてしまい、素っ頓狂な声を上げる。
子供の駄々か、と、言い返しそうになるのをぐっとこらえて、再び彼女に目をやった。少しだけ楽しそうにしていたはずの彼女の口元はまたきつく結ばれて、俯くのと共に長い髪が落ちる。案外感情の忙しい人なんだな、と思いながらも、陽の光に混ざって揺れるそれが教室のカーテンみたいで、少しきれいで、思わず見蕩れてしまった。

「最近さ、夷隅とも仲良いんだよねあいつ」
「あ、そうなんだ」

夷隅、というのはこれまた僕たちと同じクラスに属している女子生徒だ。守ってあげたくなるような愛らしい女の子。その言葉を体現するような女子生徒で、ただ僕のような地味で冴えない男子生徒が憧れるには恐れ多い、眩しすぎる存在だ。
夷隅さんと雛瀬さんの仲が良いというのは少しだけ意外だけれど、言われて思い返せば最近授業の間の休憩時間、大久保さんが一人でシャープペンシルを出したりしまったりしているところをよく見ている気がした。もしかすると、その間に雛瀬さんが夷隅さんのところに行っていたのだろうか。

そんなことを思い出している僕をよそに、彼女は更に顔を俯かせて、影を濃くしながら言葉を落とす。

「違うのかな」

彼女はなんの淀みもなく、僕に告白をした。

「私がナツの一番じゃないのかな」
「は?」
「私はナツに全部あげたっていいのに」

伏せた表情や暗く影を覆った鼻筋は美しくて、まるで人形のようだった。

――それは僕に答えられることではないだろう。そんなことを言われても。相手を適当に選んで気分転換をするのはやめてほしい――

全部全部が混ざり合ってとある漫画の元気玉みたいな大きさで僕の頭上を覆っていってそれでも相手から目が逸らせない。

「……」

地味でコミュニケーション能力が低くて冴えない僕がすぐさま言葉を返せるわけもなく、彼女が反応するのを待つしか術はない。彼女はじっと俯いたけれどしばらくしてから居心地が悪くなったのか、理不尽にも僕を睨みつけて――この数分の間で理不尽でなかったことなんてひとつもないけれど――「なんか言えよ」と圧をかけてきた。やはり雛瀬さんと仲が良いだけはある。彼女も言葉遣いが荒く、汚い。

「……あの」
「あ?」
「なんで、ぼ、僕に言うの」

ただの気まぐれなのだろうと分かりながらも一度始まってしまったもののせいですぐに希望が期待に変わる。彼女は、大久保さんは、ぎゅうと寄せた眉間の皺を少しだけ和らげて、それでも仏頂面のまま「なんか、言いたい時にあんたいたし。あんたナツと仲良いし」と答えた。僕が先程思っていた通りの理由だった。

「別に仲良くはないんだけど」

僕は言う。

「…なんかいちいちむかつくなあんた」

どこまでも理不尽に彼女は言う。
そこでついに僕は、言ってしまった。

「あのさ、」
「ん?」
「僕の名前。あんたじゃなくて樫村譲です」

言ってしまってから、ああ、もう、本当にだめなんだなぁと自覚する。本当に本当なんだなぁと自覚する。出したりしまったりされるシャープペンシルの音。あまりにも目を引く協調性のなさ、無関心、理不尽、器用に気遣われた髪型や服装。彼女の交友関係だとか、意外だなと思う程度には気にかけていることだとか、先程の世界の終わりみたいな愛の告白だとか。そういうものすべてが結局全部そういうことだ。

僕は大久保さんがとても苦手だ。

「……かし、むら?変な名前」
「…そうだね」

彼女に向かって僕は力なく笑みを返す。
出席番号、前後なんだけどなぁ。
――それが間違いだったのかしら。それが間違いだったのかしら。

(2020/09/27)

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