歌集『二月と三月と三月と四月』について、書評を書いていただきました。
書いた人:OPさんさん(おともだち)
短歌集を開くと、写真にも映像にも残り得ない〈視線〉という物質の伴わない記憶が並んでいた。記憶を越える言葉はなく、けれども、言葉がなければシャッターチャンスを与えてはくれなかったあの日が今に現れることはなかった。短歌の上に薄く張り付いている透明なフィルムのような今が、差し込む光を半分だけ反射させて、部屋の中で眠っていたはずの私の記憶を呼び覚ましてキラキラと散った。
記憶や観念を礎とするものはいつも丸裸だ。失くしたくないと、留めておきたいと願う瞬間は、思いついた言葉で埋めたり空気を入れて大きく膨らませたりすることができない。球根から芽を出したチューリップの茎に「もっと華やかになれ」と百日紅の枝を接ごうとしたところで望まぬ姿それにしかならないように、短歌は詠み手の純粋な観念をねじ曲げることも繕うこともできない。短歌はいつもそうやって詠んだ人の輪郭の内側を丁寧になぞる。その記憶や観念をなんとか言葉に託したとして、紙の上に置かれた言葉はさらに出発点から遠のく。
それでも、短歌を声に出して呼んでみたときにだけ、ふと香る今があるのだ。毎朝同じ時間にコーヒーを淹れる喫茶店の壁に染み付いた残り香のように、初めて訪れるはずの場所から何故かよく知った匂いがする。あなたが詠んだ記憶とは違う、私だけの感情が新しい観念となって胸を撫でる。そして理解する。不変の記憶と、変わりゆく自分を。
言葉を紡いでいるのに言葉には甘えきれないような、はつのさんの短歌の態度が羨ましい。だからときどき、もしかすると私は彼女を自分のペースに巻き込んでしまったんじゃないかと怖くなる。ビニールハウスに連れられてきた花のように、本当は動かずにじっとしていたいと言っている身体を無理矢理春だ夏だとせきたてて、食むべき冬を奪ってしまったんじゃないか、と。
寡黙であることは停止していることと同義ではないと分かりながらも、私は今日も生き急いでいた。この本を開き、短歌をなぞり、まぶたを閉じてやるといい、と自分に教えてあげたい。聞こえない声は、けれども存在しない言葉ではない、とも。
誰しも人生で一度は、どこかの番組だか本だか、はたまた遠足で行った水族館だかで聞くことになる「マグロは動いていないと死んでしまう魚です」という雑学に私は強い共感を覚える子供だった。
寝る時間が惜しくて、できることならずっと何かをしていたい。本を読んだり、ゲームをしたり、勉強したり、音楽を聴いたり、雑誌をめくったり、言葉の定義を考えたり、感情の出どころを探したり。ずっと時間が足りなくて、ずっと飢えていた。昨日よりも少しでもマシな自分になりたくて、なんでもとりあえず口に入れて試していた。脳以外の全ての機能を入れ替えてロボットになれば半永久的に動き続けることができるかもしれないと空想を広げた夜の数は、私の年齢と比例している。
犬なのに吠えるのが下手な子がいるように、ヒトなのに生きるのがめちゃくちゃ下手だった。今もまだ、ずっと不器用で下手だ。知らないものを知らないまま「嫌いだ」と言えなくて、言葉通り、甘いのも辛いのも苦いのも全部飲み込んで死ねない魚のように泳ぎ続けている。
そんなマグロのように忙しなく走る生き物も、立つことを覚える赤ちゃんと同じくらいの年月をかけてようやく立ち止まることを覚えた。立ち止まって、振り返って、自分が積み重ねてきたものをちゃんと受け止めてあげて、そしてまた歩き出す。そうしているうちに段々と立ち止まる回数が増えて、ある日突然動けなくなった。
私は(こんな時、タバコが吸えたらめちゃくちゃキマるのにな)と思いながら笑っていた。動けないので仕方なくじーっとしていると、しばらくしてまた動けるようになった。今までと同じようにとはいかないけれど、またノンストップで全身を動かし始めて、マシな自分になるために走りだした。
それ以降、ときどき立ち止まってじっとしたり、指の一本も動かさずにじっとしていることがある。そうしたいのではなく、それ以外に何もできないのだ。
私は気付く。動けない時はまぶたを閉じるとよい。いらない情報を入れずに、素直に自分の体を甘やかすことができるような気がするから。はつのさんの短歌を詠むと、まぶたは自分の意思で閉じられるんだと、そんな当たり前のことを「そういえばそうだった」と思い出す。
生きている人はいつも新しい日常を求められる。新しい推し、新しい仕事、新しい人脈、新しい服、新しい曲、新しいノート、新しい言葉、新しい習慣、新しい今。そういうものに対する態度が私とはつのさんとでは時折ちがっていた。同じであるはずがないのだけれど、その違いを見つけるたびにいちいち驚いたり傷ついたりしていた。
それでも私たちは同じものを愛している。おばあちゃんのコート。おさがりのパジャマ。タンスの中に眠っていた新品の下着。まだ似合わない豪華な地金の指輪。記憶に愛された視線は街には売っていないから。
お友達のOPさんが、書評を書いてくださいました。
本人は「書評というよりも、感想になってしまった」と言っているけれど、私としてはこれを読んだとき、人の柔い部分に触れたときのちいさな火傷のような、それでいて鈍いようなそういう音が体の奥で鳴ったような気がしました。熱いのを忘れて触れたはんだごてが、火傷するほどは熱くなくて、でも確かに触れたのがわかるくらいには、ジッ、と熱かったみたいな、そういう感じ。(でも、熱いはんだごてはとても危険なので本当に気をつけてください。火傷するとめちゃくちゃ痛い)
書いてくれてありがとう。あといつも、一緒にご飯を食べたりネトフリを見たり、本屋に行ったりしてくれてありがとう。おかげでいつも楽しいです。今は一緒に見始めたカルテットの続きが気になって仕方ありません。早く見たい。