実家の祖父が亡くなった日。中学二年の春だった。私はいつものように、離れからやってきた祖父を無視した。離れにもトイレはあるのにどうしてわざわざうちに用を足しに来るんだろうと、あからさまに顔を背けた。当時の私は多分、親に向けることができない反抗期を祖父母にぶつけていたのだと思う。とにかく祖父母が嫌だった。「みんなに感謝をしなくちゃ」と言いながら母親の陰口を言う祖母も、白い肌着から乳首を浮かしたまま敷地内をうろつく祖父も、嫌だった。玄関ホールから居間を隔てた扉の隙間、そこからふざけて顔を出す祖父から、私は顔を背けた。もしかしたら、これはいつかの別の日の記憶なのかもしれない。けれど、その頃の私はいつだってそんな態度だった。なのできっと、似たような態度を取ったのだと思う。
その日の夜、確か21時半以降だったか、22時半以降だったか。
当時姉は実家を出て遠くに住んでいたし、弟はその日既に自室に籠っていた。父親は仕事だったのだと思う。母親は毎晩何かしらの集まりに出かけていた。私はいつものように、一人居間で宿題をしながらドラマを見ていた。この記憶も正しいのかいまとなってはあやふやだけれど、確か、物語も後半に差し掛かったところといった時間帯だった。
電話が鳴った。その当時我が家には電話の回線がふたつがあって、そのうちの、会社の回線が鳴ったのだった。私は会社の電話に出るのが苦手だった。学校で習ったこともなかったし、家族に言われた通り対応しようにもいつだって相手側の状況は違うのでうまくはいかない。だけど三回鳴っても誰も出ないなら出なくちゃいけない。
私はその日、ずるをして電話を無視した。聞こえないふりをしてドラマを見た。ドラマを見終わった後、知らないふりのまま私は自室のベッドに潜った。私の部屋は二階にあった。
いつものようにベッドの中で考え事をして、うとうととし始めた頃、一階からどたばたと慌ただしい音が聞こえた。また誰かが怒っているのだろうか。それにしてはいつもより怒声が続かないな。でも、喧嘩かもしれない。そう思って私は目を瞑った。いつものように、知らないふりを続けたまま眠った。
次の日の朝、いつものように学校に行くのが面倒だなあと、洗面所でコンタクトレンズを入れていた。行きたくないけど行かなきゃいけないのが学校で、行きたくない理由の中に明確な毒や要因はなくて、ただ普通に、行くのが億劫ないつもと変わらない朝だった。
片目のコンタクトレンズを入れたあたりで、母親がやってきた。
「今日は学校休んでいいよ」
薄暗い廊下に、天窓の陽射しが差し込んで、ちかちか埃が舞っていたような気がする。それはその日の記憶じゃないのかもしれない。ただの私の中に残っているきれいにしたかった記憶なのかもしれない。
私はどうしてなのかと疑問に思って、休めることにふわふわと少しだけ浮き足立って、頭はまだ寝ぼけていて。
そこで、昨晩祖父が交通事故に遭ったことを告げられた。
どうやら昨晩私が無視した電話というのは警察からのもので、その晩会社の車で移動していた祖父はひとりきり、運転中に、何があったのかはきちんと知らされていないけれどどこかに衝突して、火に包まれて命を落としたのだという。いつ、どのタイミングで命を落としたのかはよくわからない。衝突する寸前かもしれないし、衝突した瞬間なのかもしれないし、炎に包まれたときなのかもしれない。私は未だにきちんと聞けていない。
ただ発見された時にはもう身元を判別できる状態ではなくて、車のナンバーから会社の番号を割り出し、電話をかけてきたのだと聞いた。父親もはじめ祖父の姿を見たときは本人かどうかを判別できず、ただ、遺留品の腕時計は確かに祖父のものだったから、と、その頃話してくれたような気がする。祖父の時計は、暗いところで時計版が光る、ガチャガチャとした銀の腕時計だ。家族みんながよく覚えている、祖父の腕時計だったという。
「あの時お前が電話に出なくてよかった」と言われた記憶はある。両親は覚えていないようだけれど。もし真実が違うのだとしたら、もしかしたらこれは私が勝手に作った記憶なのかもしれない。
昨日、おじいちゃんが、事故で、亡くなった。
直後、言葉の意味を私がどうとらえたのかよく覚えていない。コンタクトケースを握ったまま洗面所の前に立ち尽くして、ぼんやり母親の元に歩いていこうとしたかもしれない。母親は私を抱き締めて、二人で泣いたような気がする。どんな風に泣いていたのかもよく覚えていない。でもその時、涙と共にようやく言葉になった感情は、「おじいちゃんごめんなさい」だった。ただそれだけだった。それだけは今でも鮮明に覚えてる。私は母親の腕の中で、心の中でずっと、「おじいちゃんごめんなさい」と繰り返して、泣き崩れた。
そのあと、弟が起きてきて、どんな態度をとっただろう。もっと優しく傍にいればよかったと思うのだけれど、できていなかったかもしれない。もしそうだとしたらただただ申し訳ない。姉がどうだったかはわからない。母方の祖父母と共にやってきて、玄関で泣いていたような気がする。
私は、みんなの昼ご飯を用意しないとと母親からおつかいを頼まれ、近くのお店に行った。昔からお世話になっているおばさんが店先にいて、ひどく動揺しながら、泣きそうになりながら、私に向かって「大丈夫か」と尋ねてくれた。私はその時、どうすればいいのかわからなくて、へらへらと笑いながら「大丈夫です」と答えた。間違えたと思ったけれど、笑うしかできなかった。
通夜と葬儀にはたくさんの人がきて、霊安室では棺に縋って泣き崩れる人もいた。とてもじゃないけど見せられる姿じゃないと言って、私たちは最後まで顔を見ることができなかった。あまりにも突然で、たくさん泣きながら、それでも全く実感がわかなくて、「ひょっこり棺桶から出てくるんじゃないの?」と笑って言ったらそんなわけないでしょうと叱られた。それでもそう言っていないとどうすればいいのかわからなかった。
出棺の時は、ホールの周りを取り囲むほどの人だかりができていた。青空の綺麗な日だった。雲一つなかった気がする。火葬場では、煙が綺麗に線を引いていたような気がするけど、私の記憶違いかもしれない。川辺に、一羽の鳥がいた。じいと佇む姿が不思議で、お義父さんかもしれませんよ、と親戚のおじさんが話していたような気がする。
なぜ突然この話を書いているのかというと、
先日、実家の祖母が亡くなったのだ。
とうとう、という気持ちと、突然、という驚きがないまぜになって感情が追いつかなかった。
いいお天気でよかったなあ、とか、明日もそうだといいなあとか、そういうことしか考えられず、ようやく地元に到着して祖母の顔を見たときも「眠ってるみたいな顔だなあ」と、まじまじ眺めていた。きれいな顔だった。納棺や通夜までの手伝いをしながら、私は、「どう動けば正しいのだろう」とずっと、そんなことばかり考えていた。
そしてその答えが、今になってもわからない。
けれど、やはり、やっと言葉になった感情は「おばあちゃんごめんなさい」だった。
祖母の中で、祖父の中で、私という孫の姿はどれくらいの隙間に、どんな色や形やにおいをして、どんな気持ちを向けて存在したのだろう。そしてそれが私にとっての救いなのか、事実なのか、現実なのか、考えようとすればするほど、私がこの人たちの孫である「必要」があったのかわからなくて。これからも、こんな気持ちで私は誰かに「ごめんなさい」と許しを請うのかと思うと、悲しくて。情けなくて。そう感じることもまた違うような気がして、正直、ここまで書いたら何か見つかるのかと思ったけれど、未だに全く整理がつかない。
祖母との最後のお別れの時、伝えた言葉は「おじいちゃんと仲良くね」だった。それだけを伝えてお別れをした。それしか言葉が思いつかなかった。祖父と祖母は、これから一緒にいられるのだろうか。望んだ形で、寄り添っていられるのだろうか。焼けて残った骨の臭いが、鼻先にこびりついて離れないのにきっと私はまたいつかの日までの間に忘れるのかもしれない。だって、この日までずっと忘れていた。
祖父母は幸せになれるだろうか。
この世を去ったひとたちの幸せを願うのは、正しいのだろうか。
顔を背けた相手の幸せを願うのは、偽善なのだろうか。心からだとしても?
幸せを願う相手の足元がゆっくりゆっくりと地面から浮いていくまでを、私が見送る理由はあるのだろうか。
誰が望むのだろうか。私は望むのだろうか。逃げているだけなのだろうか。
結局なんにも着地できないまま、とにかく言葉に変えたくてこの文章を書いている。
(2020/07/04)